こんな感覚を持ったことは、誰にでもあるのではないでしょうか。
行動経済学では、この心理的傾向を『現状維持バイアス(Status Quo Bias)』 と呼びます。
施術業界を目指す学生にとっても、すでに臨床に立っている施術家にとっても、このバイアスは単なる学術用語ではなく、日々の行動に直結する非常に身近なテーマです。
- 自分に合っていない勉強法を、何年もなんとなく続けてしまう
- 患者さんに生活習慣の改善を提案しても、「今のままでいいです」と返されてしまう
- 治療院経営において「今のやり方で何とかなっているから」と、新しい予約システムや施策の導入を後回しにする
「今のまま」を選ぶ心理は、本人にも周囲にも見えにくい強力な力を持っています。
だからこそ、施術家がこの仕組みを深く理解しておくことで、患者さんを無理に動かすためではなく、患者さんが自分のペースで納得して行動を変えられるよう、適切な環境をサポートできるようになります。
この記事では、現状維持バイアスの定義から、この概念を打ち立てた代表的な研究、背後にある心理的メカニズム、そして勉強・臨床・経営にどう具体的に活かせるかまでを整理していきます。
💡 この記事のポイント
現状維持バイアスは「意志の弱さ」ではなく、不確実性や認知的負荷を避けるための人間の標準仕様です。
この前提に立つことで、自分自身にも患者さんにも、より優しく効果的なアプローチが可能になります。
目次
現状維持バイアスとは何か
一言でいうと
現状維持バイアスとは以下を指します。
伝統的な経済学の教科書が想定する「合理的な人(ホモ・エコノミクス)」であれば、より高い効用をもたらす新しい選択肢が見えた瞬間、すぐに乗り換えるはずです。
しかし、実際の私たちは必ずしもそうしません。
むしろ、慣れ親しんだ状態をそのまま続ける方を、無意識に、そして不釣り合いなほど高く評価して選びやすいのです。
背景にある心理とメカニズム
この現状維持バイアスは、単一の理由から生じるのではなく、以下のような複数の強力な心理的メカニズムが重なり合って生まれることが分かっています。
- 損失回避(Loss Aversion):人は何かを得る喜びよりも、何かを失う痛みを約2倍強く感じるとされています。現状を変えることには「未知のリスク」が伴うため、「変えて得をするかもしれない」という期待よりも「変えて悪くなるかもしれない」という恐怖に焦点を当ててしまいます。
- 後悔の回避(Regret Avoidance):心理学では、何もしなかった結果の失敗(不作為の後悔)よりも、自ら能動的に行動して起きた失敗(作為の後悔)の方が、より強い精神的苦痛をもたらすことが示されています。そのため、責任を伴う新たな決断を避けるようになります。
- 決定回避と選択の過剰(Choice Overload):選択肢の数が増えれば増えるほど、比較検討にかかる脳のエネルギー(認知コスト)が増大します。複雑で圧倒的な選択肢を前にすると、脳は思考をショートカットし、「とりあえず今まで通りで」と決断を放棄(決定回避)してしまいます。
- サンクコスト(埋没費用)の心理的コミットメント:これまでに投資した時間・労力・お金が惜しくなり、「ここでやめたら無駄になる」と過去の自分を正当化しようとする心理も、現状維持を補強します。
似た用語との違い
行動経済学には似たような用語が多数存在するため、ここで違いを明確に整理しておきます。
| 用語 | 違いのポイント |
|---|---|
| 現状維持バイアス (Status Quo Bias) |
幅広く「今の状態」を好む傾向。所有していなくても、過去の投資がなくても、「現在の設定」であるというだけで選ばれやすくなる現象。 |
| 損失回避 (Loss Aversion) |
「損をしたくない」と感じる心の働きそのもの。現状維持バイアスや保有効果を引き起こす根本的なエンジン(原因)となる概念。 |
| デフォルト効果 (Default Effect) |
最初から設定されている選択肢(初期設定)がそのまま受け入れられやすい現象。多くの場合、設計者側が意図的に設定した環境によって生じます 。 |
| 保有効果 (Endowment Effect) |
一度自分の所有物になったものの価値を、客観的価値よりも不当に高く見積もる傾向。自分が持っているものを手放すことへの抵抗感。 |
現状維持バイアスは、損失回避や保有効果などを内包しながら、現実の意思決定において「動かないこと」を正当化する巨大な引力として働きます。
関連する有名な研究
サミュエルソンとゼックハウザーによる画期的な研究(1988年)
「現状維持バイアス」という概念そのものを提唱し、それが人間の広範な意思決定に影響を与えていることを証明したのが、ボストン大学のウィリアム・サミュエルソンとハーバード大学のリチャード・ゼックハウザーによる1988年の論文『Status Quo Bias in Decision Making』です。
彼らは、実験室でのアンケート調査と、現実世界でのフィールドデータの両方からこのバイアスを立証しました。
① 仮想的な意思決定実験(大叔父からの遺産)
実験参加者に対して、「あなたは大叔父から多額の遺産を相続しました。
それをどこに投資しますか?」というシナリオを提示しました。
このとき、参加者を2つのグループに分けました。
- ニュートラル・グループ:「まだ何も保有していない状態」として、中リスク企業、高リスク企業、国債、地方債の4つの選択肢を平等に提示しました。
- 現状維持グループ:「大叔父の遺産は、すでに中リスク企業(企業A)の株式として保有されている」と伝え、そのまま持ち続けるか、他の選択肢に乗り換えるかを選ばせました。
結果は驚くべきものでした。
「すでに中リスク企業の株を持っている」と伝えられたグループは、それがただの初期設定であるにもかかわらず、中リスク企業をそのまま選び続ける確率が圧倒的に高かったのです。
選択肢の経済的条件は全く同じなのに、「今そこにある」というだけで人の選択は大きく偏りました。
② 現実世界でのデータ分析(ハーバード大学とTIAA-CREF)
彼らは実験室にとどまらず、現実のシビアなお金が絡む場面でも分析を行いました。
ハーバード大学の教員が選択する健康保険プランや、TIAA-CREF(全米教職員年金保険組合)の年金プランの運用データです。
その結果、新規加入者は自分に最も適した新しいプランをしっかり比較検討して選ぶのに対し、既存の加入者は、年齢や家族構成が変化し、保険料の自己負担額などが不利に変わっても、昔選んだ古いプランから全く乗り換えようとしない(現状維持を選ぶ)傾向が如実に確認されました。
カーネマンらによる「ワインを愛する経済学者」の事例(1991年)
ダニエル・カーネマン、ジャック・クネッチ、リチャード・セイラーという行動経済学の巨頭3名による1991年の論文では、現状維持バイアスと保有効果がいかに結びついているかが、ある経済学者のエピソードを通して分かりやすく解説されました。
ワイン好きのその経済学者は、昔10ドルで買ったボルドーワインを大切に保管していました。
今やそのワインはオークションで200ドルの値がつきます。
彼はたまにそのワインを自分で飲みますが、決して200ドルで「売ろう」とはしません。
しかし同時に、もし自分がそのワインを持っていなかったとして、新しく200ドルで「買おう」とも絶対に思いません。
「200ドルで売らない(今のまま持ち続ける)」ことと「200ドルで買わない(今のまま持たない)」ことは、純粋な経済学から見れば矛盾しています。
しかし彼は、「自分が現在置かれている状態(ワインを持っている、あるいは持っていない)」を基準点(現状)とし、そこから動くことを頑なに拒否しているのです。
🔑 研究を扱うときの注意
サミュエルソンらは、選択肢の数が多くなればなるほど、現状維持バイアスが強く働く(選ぶのが面倒になり今のままにする)ことも発見しています [cite: 9, 18]。これは、後の「選択の過剰負荷」の研究にもつながる重要な視点です。
日常生活で見られる現状維持バイアス
例1|ブラウザのスタートページやスマホの設定
何年も前に設定したブラウザの初期ページや、スマホの各種通知設定を、いまだに変更せずそのまま使っている人は多いはずです。
「もっと便利な設定がある」「通知をオフにした方が快適だ」と頭では分かっていても、設定画面を開いて手順を調べる一手間(認知コスト)を惜しんで、今のままを選び続けてしまいます。
例2|ほとんど使っていないサブスクリプション
動画配信サービス、フィットネスジム、あるいは仕事用のソフトウェアなど、月額課金をしているもののほとんど利用していないサービスはないでしょうか。
解約手続きは数分で済むのに、「いつかまた使うかもしれない」「手続きのページを探すのが面倒だ」と先延ばしにしてしまう。
これは、「行動を起こす面倒さや喪失感」が、毎月の出費という確実なマイナスよりも重く感じられている典型的な状態です。
例3|寝るときの姿勢や長年の身体の癖
身体の不調を抱える人ほど、「寝る姿勢を変えてみては」「足を組むのをやめてみては」という提案を「面倒だ」「落ち着かない」と感じやすいものです。
仰向けや正しい姿勢の方が身体に良いと頭では理解していても、長年続けてきた癖(ステータス・クォー)に脳と身体が適応しているため、それを変化させること自体に脳がアラート(抵抗)を出してしまうのです。
学生の勉強・実技練習への応用
勉強法を見直すタイミングと「選択の過剰」
国家試験対策において、入学直後から3年・4年と同じ勉強法(ひたすら教科書を読むなど)を惰性で続ける学生が多くいます。
しかし、学習段階によって有効なやり方は変化するはずです。
- 1〜2年生:基礎知識のインプット中心
- 3年生:過去問演習を通じた定着とアウトプット
- 直前期:弱点のピンポイント補強や模試形式の時間配分
それでも「今までこのやり方でやってきたから」「新しいアプリや参考書を比較するのが面倒だから」と方法を変えない人は少なくありません。
これは、膨大な学習ツールの中から最適なものを選ぶ認知的負荷(Choice Overload)から逃れるための現状維持バイアスです。
変える勇気を出すには、「今日から勉強法を根本的に変える」のではなく、「1日のうち最初の30分だけ、新しい過去問アプリを試してみる」というような、既存のルーティンを大きく壊さない小さな実験から始めると、心理的負担がぐっと下がります。
💡 学習のヒント
勉強法を「全とっかえ」しようとすると脳が強い抵抗を示します。
1日のスケジュールのほんの一部にだけ新しいやり方を混ぜる(現状の大部分は維持する)ことで、心理的ハードルを容易に越えることができます。
実技練習における自己流の固定化
実技や手技の練習でも、初期の段階で自己流の動かし方が定着してしまうと、後から教員に「もっと体重を真上から乗せて」「足の位置を変えて」と指摘されても、無意識のうちに元の慣れたやり方に戻ってしまいます。
ここで効くのが、「練習中、3回に1回だけ指摘された新しい動きを意識して大げさにやってみる」というルール作りです。
一度に全てを変えるのではなく、半分以上は「今のまま(現状)」を残す方が、変化への抵抗を和らげつつ技術を上書きしていくことができます。
友人関係やグループ学習の固定化
常に同じメンバーとだけ勉強や練習を続けるのも、現状維持バイアスの一形態です。
「いつものメンバー」は気心が知れており、予測可能で安心感があります。
しかし、たまには違う学年や違う専攻の人、外部の勉強会に参加することで、自分の視野や技術の客観的な立ち位置に気づくことができます。
「来週だけ一度、別のグループの練習に顔を出してみる」程度の軽い試みが、新しい刺激を生むきっかけになります。
完全に交友関係を変える必要はなく、「今の関係ベースはそのまま維持し、少しだけ拡張する」という発想が重要です。
臨床・患者対応への応用
行動変容を支える「変えなくていい部分」を残す提案
臨床現場において、患者さんに「日々の姿勢を変えてください」「食事の栄養バランスを根本的に変えてください」と大きな切り替えを要求すると、患者の現状維持バイアスが強く発動し、結局何も行動してもらえないという事態に陥ります。
これは患者が怠惰だからではなく、変化に伴う「損失(好きなものが食べられない、辛い努力が必要)」が、「健康になる」という未来の利益よりも約2倍重く感じられてしまう(損失回避)からです。
代わりに、「今の生活基盤はそのままで、ここに1つだけ小さな行動を足す」という提案が極めて有効です。
- 「運動のために毎日歩く時間を確保するのではなく、いつもの通勤ルートでエスカレーターではなく階段を使うだけにする」
- 「食事制限をするのではなく、いつも通りの食事の前に、必ずコップ1杯の水を飲むようにする」
「今の自分(ステータス・クォー)」をほぼ維持できる提案は、患者の心理的抵抗を劇的に下げ、受け入れやすくなります。
✅ 患者対応のOK例
「生活習慣を根本から変えましょう」ではなく「今のままで大丈夫です。そこに、ここだけ1つ追加してみませんか」と伝える。
現状維持の安心感を尊重した提案が、結果として持続的な行動の定着につながります。
セルフケアの定着とアンカー
自宅でのストレッチや体操を「毎日10分、これら5種目をやってください」と提示するとハードルが高すぎて続きません。
「毎晩のお風呂上がりに歯磨きをしますよね?その歯磨きをしている間の30秒だけ、片足立ちをしてください」というように、すでに強固な現状(毎日やっている無意識の習慣)の上に、新しい行動をパラサイトさせる(便乗させる)方が、はるかに定着しやすくなります。
これは、変化の総量を最小化する見事な環境設計(チョイス・アーキテクチャ)です。
「動けない」を責めない視点
「アドバイスしたセルフケアが続かない患者さん=意志が弱い人、治す気がない人」と評価してしまうのは、施術家として早計です。
人間は誰しも、進化の過程で「不確実な変化を避ける」という現状維持バイアスを獲得してきました。
続かないのは性格的欠陥ではなく、人間の脳の標準仕様(デフォルト・セッティング)だ、という前提に立つと、患者さんにかける言葉が自然と変わります。
- 「忙しいと続かないですよね。よくあることですので気にしないでください」
- 「どこが面倒に感じて止まってしまったか、一緒に負担の少ない方法を考えましょう」
責めない姿勢と共感が、不作為の後悔やプレッシャーを取り除き、次の小さな一歩を引き出します。
不安への配慮と事前説明
鍼灸や新しい矯正手技などを初めて提案する際、「そんな痛そうなことをするの?」と強い不安を感じる患者さんもいます。
「これまで受けてきたマッサージと違う」という変化自体が抵抗の原因です。
- 具体的に何が変わるのか(刺激の種類、時間)
- 何は変わらないのか(施術の安全性、いつでもストップできる権利)
- 合わなければすぐに元のやり方に戻すことができるか
これらを順番に丁寧に伝えることで、現状維持への執着を解きほぐし、新しい選択肢を検討する余白を患者の心に作ることができます。
治療院開業・経営への応用
初回来院のハードル設計
初めての治療院に足を運ぶこと自体が、患者さんにとっては「現在の状態(痛みはあるが我慢している日常、あるいは他院に通っている日常)を変える」という非常にエネルギーのいる行動です。
未知の場所へ行く不確実性が、現状維持バイアスを強固にします。
そのため、「変えることへの不安」を事前の情報提供で細かく取り除く設計が、来院ハードルを下げる最大の鍵になります。
- 服装の指定(「お仕事帰りのスーツや普段着のままでOKです。着替えもご用意しています」)
- 所要時間の明示(「初回はカウンセリングを含めて約60分です」)
- 駐車場・道順の写真付き案内(迷うリスク=不確実性の排除)
- 料金やキャンセルポリシーの分かりやすい表記(損失の不安の軽減)
院長自身の現状維持バイアスへの気づき
経営においては、患者だけでなく院長自身がこのバイアスの罠にとらわれることが多々あります。
- 何年も前に作ってスマートフォン表示に対応していないホームページを、「作り直すのが面倒」とそのまま運用している
- 紙のカルテや古い予約システムから、効率的なクラウドシステムへの移行を「スタッフが混乱するから」と先延ばしにしている
- 物価やコストが上がっているのに、患者離れ(損失回避)を恐れて一度決めた料金体系を見直さない
ここで効くのは、「変えないことによって生じている見えないコスト(機会損失)」を具体的な数字で可視化することです。
古い予約システムのせいで月に何件のWeb予約を取り逃がしているか、料金を上げないことで年間どれほどの利益を失っているかを試算すると、現状維持の「心地よさ」が揺らぎ、合理的な経営判断のスイッチが入りやすくなります。
✅ 経営の思考訓練
「変化を恐れない勇気を持とう」と精神論を掲げるより、「現状を維持し続けることのコストとリスクを数字にする」方がはるかに現実的です。
数字という客観的データは、無意識のバイアスを打ち破る強力な武器になります。
メニュー設計と「選択肢の追加」
回数券やサブスクリプション(定額プラン)、新しい自費メニューを導入する際、既存の患者さんには「今までの都度払い(単発払い)も、もちろんそのまま残します」と必ず伝えることが重要です。
「今までの選択肢が消奪される」と感じると、強いリアクタンス(心理的反発)と現状維持の欲求が生まれます。
既存のメニューを変える・無くすのではなく、新しい選択肢を横にそっと増やす設計の方が、現状維持バイアスとの相性は良く、移行への摩擦が少なくなります。
サミュエルソンらの研究でも「デフォルトの選択肢」が存在する中での緩やかな移行が、最も反発を生まないことが示唆されています。
スタッフへの業務変更依頼
スタッフに新しい業務フローやルールの変更を頼むときも、経営トップが思う以上に現状維持バイアスは強く働きます。
「明日からこのやり方に全部変えて」とトップダウンで指示すると、現場は混乱し、元のやり方に戻ろうとします。
「現在のやり方のこの部分はすごく良いからそのまま残して、ここのワンステップだけ効率化のためにツールを使ってみよう」というように、最小変更の原則(インクリメンタル・コミットメント)で伝える方が、心理的抵抗が少なく、結果として新しい業務が定着しやすくなります。
施術家が活用するときの注意点
現状維持バイアスという人間の性質を臨床や経営に応用する際、倫理的・実務的に押さえておきたい点をまとめます。
- 誘導ではなく、不安軽減のために使う:患者の「変化への不安」を尊重し、ハードルを下げるために使うのは優しさです。しかし、「今のままだと大変なことになりますよ」と不必要に不安や損失回避をあおり、高額な回数券の購入や不必要な通院を強制するような使い方は、長期的な信頼を完全に損ねます。
- 治療効果そのものとは切り離して考える:バイアスに配慮したコミュニケーションによって患者のセルフケア実施率や通院継続率が上がることと、施術そのものの医学的・生理学的な治療効果は別物です。行動経済学は「行動のフリクション(摩擦)を減らす」ツールにすぎません。
- 「今のままでいい」という患者の意思決定も尊重する:専門家の目から見て「絶対に生活習慣を変えた方がいい」場面でも、最終的にどう生きるかを決める権利は患者さん本人にあります。適切な情報提供と選択の支援(チョイス・アーキテクチャ)を行った後は、患者の判断を尊重する姿勢が求められます。
- 「必ずこうなる」という過信を捨てる:サミュエルソンらの研究は強力な傾向を示しましたが、効果の大きさは個人の性格、文化、選択肢の提示方法によって変動します。万能の魔法の杖ではないことを理解しておきましょう。
⚠️ 倫理的な留意点
行動経済学の知見を使って、患者さんを意のままに操ろうとする(スラッジ的な利用)のは厳禁です。
施術家の役割は、患者さんの選択肢を奪うことではなく、患者さん自身が納得してより良い選択ができるよう「環境を整えること(ナッジ)」にあります 。
よくある誤解
誤解1|「現状維持を選ぶ人は意志が弱く、怠惰なだけだ」
「アドバイスを守らない」「現状を変えようとしない」患者さんを見てそう感じてしまいがちですが、現状維持バイアスは人間の標準的な認知特性(ハードウェアの仕様)です。
意志の強弱の問題ではなく、賢い人でも専門家でも、誰もがほぼ等しく陥る認知の省エネ機能なのです。
誤解2|「現状維持=常に悪いもの・非合理的なもの」
実は、現状維持を選ぶこと自体が常に悪いわけではありません。
私たちの脳は1日に何万回もの選択を迫られています。
安定した「いつものやり方(現状)」を続けることで脳のエネルギーを節約し、浮いたエネルギーをより重要な仕事や判断に集中させることができるという生存に不可欠な良い面もあるのです。
バイアスが問題になるのは、「客観的に見て明らかに不利になっている現状」を、惰性で続けてしまう時です。
誤解3|「行動経済学のナッジを使えば、相手を強制的に変えられる」
人を「正しい方向」に動かすために、無意識のバイアスを悪用してナッジ(後押し)を濫用するのは倫理的に問題があります。
リチャード・セイラーらが提唱したナッジの本来の考え方は、「人々の選択の自由を完全に保障したうえで、より良い選択をしやすいように環境の構造をデザインする(リバタリアン・パターナリズム)」というものです。
誤解4|「良かれと思って変化を提案すれば、必ず喜んで受け入れられる」
提案の仕方が雑であったり、上から目線であったりすると、患者の心理的リアクタンス(反発)を招き、現状維持バイアスはむしろ強固になります。
「今のあなたの暮らし方(現状)は間違っている」と否定されたと感じると、人は自己防衛のために守りに入ります。
変化の提案は、患者さんの現在の選択やこれまでの歩みへの深い敬意を伴ってこそ機能するものです。
⚠️ 誤解を避けるために
「現状維持バイアス=排除すべき悪」「変えない人=怠惰」と捉えるのは行き過ぎた解釈です。
バイアスは人間の標準仕様であり、それを活かす場面と、サポートして乗り越える場面を見極める冷静な視点が大切です。
まとめ
現状維持バイアスとは、以下です。
これは決して人間の弱さや怠惰によるものではなく、複雑な世界を生き抜くための標準的な心の働きです。
学生や若手施術家が明日から意識できるのは、次のような具体的な視点です。
- 自分の勉強法や実技練習のルーティンに「実はすでに最適でない部分はないか」を、定期的に見直す。
- 一度にすべてを大きく変えず、「ほんの少し(1日10分だけ)試す」設計で新しい行動をパラサイトさせる。
- 患者さんがセルフケアを継続できないとき、性格の問題ではなく「導入の仕組みやフリクション(摩擦)」の問題として捉え直す。
- 提案をするときは、「ここは変えなくていいですよ」という安心感を必ずセットで示す。
- 院の運営において「昔からずっとこうしてきた」という業務を、現状維持バイアスを疑いながら棚卸しする。
行動経済学を学ぶ本当の価値は、「巧妙に人を操作して動かすため」ではなく、「人が自分自身のペースで、不必要なストレスを感じることなく動きやすい環境をつくるため」にあります。
現状維持バイアスの存在を深く理解することは、自分自身にも、目の前の患者さんにも、より優しい視点とアプローチを持つための第一歩となるでしょう。
💡 明日からの一歩
「全部変える」「根本からやり直す」という発想を捨て、まずは「今のままの基盤に、1つだけ小さな変化を足す」ことから始めてみてください。
この発想を、自分自身の学習、患者さんへの生活指導、そして院のシステム運営に応用することで、現状維持バイアスを敵に回すことなく、味方に変える視点が育ちます。
参考文献一覧
- Samuelson, W., & Zeckhauser, R. (1988). Status quo bias in decision making. Journal of Risk and Uncertainty, 1(1), 7–59. :現状維持バイアスという用語を初めて体系的に提示した代表的論文。大叔父からの遺産を用いた仮想的な投資実験や、医療保険・年金プランの現実データ分析を通じて、人がどの程度「今の状態」に留まりやすいかが詳細に確認できる原典資料です。
- Kahneman, D., Knetsch, J. L., & Thaler, R. H. (1991). Anomalies: The Endowment Effect, Loss Aversion, and Status Quo Bias. Journal of Economic Perspectives, 5(1), 193–206. :ノーベル経済学賞受賞者らによるレビュー論文。有名な「ワインを愛する経済学者」の事例を通じ、保有効果・損失回避・現状維持バイアスという3つの概念がどのように根底で繋がっているかを確認できます。
- Thaler, R. H., & Sunstein, C. R. (2008). Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness. Yale University Press. :デフォルト効果や現状維持バイアスを利用して、人々のより良い意思決定を支援する「ナッジ」の概念を世界に広めた代表的書籍。倫理的な環境設計(チョイス・アーキテクチャ)の参考になります。
- 大竹文雄(2019)『行動経済学の使い方』岩波新書. :行動経済学とナッジの考え方を日本語で極めて平易に解説した入門書。医療・教育・公共政策の現場において、現状維持バイアスを含む人間の認知特性がどのように応用・デザインされているかを確認できます。
- 友野典男(2006)『行動経済学 経済は「感情」で動いている』光文社新書. :行動経済学の誕生から発展までの理論的背景を、心理学の視点を交えて丁寧にたどった一冊。プロスペクト理論や不作為の後悔(Regret Avoidance)の観点から、なぜ人が変化を嫌うのかを深く理解するための基礎資料です。
関連記事
以下の記事では、「行動経済学・行動科学・認知バイアス」でよく使われる用語を119選まとめて紹介しています。
リンク先からは、(この記事の様な)個別に用語を解説したページに移行できるので、様々な用語に触れて臨床に落とし込んでみて下さい。
